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02 戦いの流れ

主戦場は尾張に

Haichizu0 秀吉そして家康・信雄の両者とも、当面は伊勢国、特に信雄の本拠長島城(三重県桑名市)のある北伊勢を戦闘場所と想定していた。しかし、家康・信雄の予想に反し、美濃国大垣城主・池田恒興(勝入)と美濃国金山城主・森 長可が犬山城(愛知県犬山市)を攻撃、落城させる。慌てた家康は、池田・森の侵攻を防ぐため、自軍の一部を北伊勢から北尾張へ急遽転戦。天正12年(1584)3月17日、羽黒(犬山市)まで陣を進めてきた森軍を、家康の部将酒井忠次らが敗って、形勢を立て直す〔羽黒の戦い〕。一方、北伊勢では秀吉軍への守りが不足し、信雄領伊勢国の南半分は、ほぼ壊滅状態となる。
 羽黒で敗戦したものの、敵地犬山に拠点をもつことに成功した秀吉は、楽田(犬山市)へ着陣、周辺に砦を築いた。楽田から南方約4.5kmの小牧山(愛知県小牧市)へ家康も陣を移し、近辺に砦を作る。信雄も長島から小牧山に移った。両者の当初の思惑に反し、主戦場は尾張国内へ移り、お互いが出方をうかがうという状況になる。
諸国へもこの戦いの様相が伝えられ、両将からの呼びかけに呼応し合戦に至った地域もある。秀吉方、織田・徳川方のどちらにつくか。この戦いは日本中へ大きな影響をおよぼした。

岡崎進軍

4月に入り、膠着状態を破って秀吉軍は岡崎侵攻のための別働隊を進める。史記類をもとにした通説では、この作戦の発案者は池田恒興で、「家康配下のほとんどの部隊は小牧山にいる。今、家康の本拠地岡崎を突けば、家康軍に乱れが生じ、そこを突けば勝利できる」と提案。最初はこの案に賛成しなかった秀吉も、恒興の熱心さに押され、ついに承諾したとされる。しかし近年の研究で、事前の普請(工事)、行軍の規模、ゆっくりとした移動日程などから、この作戦は隠密行動というより、計画的で大がかりなものであったことがわかってきた。秀吉はこの案に主体的に介入し自信をもっていたと思われるが、結果的にはこの作戦の失敗は秀吉の汚点となった。そのため「太閤記」では秀吉が恒興の案を「仕方なく受け入れた」と記され、後の史記がそれに従ったと考えられる。
4月6日夜半、池田恒興・元助の父子、森長可 、長谷川秀一 、堀 秀政、秀吉の甥で総大将の三好信吉(後に三好秀次、その後豊臣秀次)の順で、約24,000人の軍勢が岡崎へ向けて進軍を始めた。

岩崎城の落城

家康は、7日遅くとも8日には秀吉方の岡崎侵攻隊の動きを把握、8日夜には自身が小幡城(名古屋市守山区)へ進んだ。岩崎城主・丹羽勘助氏次を道案内役とした
榊原康政ら4,500人の先発隊と、9,300人の本隊が秀吉方を追撃に向かった。
4月9日早朝、岡崎侵攻隊の先鋒池田隊は、岩崎城(日進市)のそばを通りかかった。恒興は岡崎への道を急ぐため、この家康方の城を攻めずに通過しようとしたが、岩崎城を守っていた氏次の弟、丹羽氏重らが、鉄砲を撃ちかけてきたため、これを攻め落としてしまった。この城には城主氏次の姉婿で、長久手城主の加藤太郎右衛門忠景も留守番に来ており、200名余りの城兵とともに戦死した。忠景41歳、氏重16歳であった。なお長久手城趾は、現在、町指定史跡となっている。

白山林の戦い-家康軍の急襲-

Haichizu 秀吉の甥で、当時わずか17歳の三好信吉が指揮する秀吉方の最後尾は、4月9日早朝、白山林(尾張旭市)で朝食をとっていた。そこへ徳川軍の先発隊が背後から急襲。不意を突かれた三好隊は、あわてて防戦に努めたが、ついに総崩れとなった。大将信吉は細ケ根(長久手町大字長湫字荒田)付近まで逃げてきたが、自分の馬も見失って、討死寸前まで追い込まれた。そこへ信吉の部将の木下勘解由利匡(きのしたかげゆとしさだ)が、自分の馬を信吉にさし出して逃し、兄弟の木下助左衛門祐久とともに、追ってきた徳川軍と戦って戦死した。なお木下一族の塚は現在も長湫字荒田に残っており、勘解由利匡の塚が、町指定史跡になっている。

桧ケ根の戦い-秀吉軍 唯一の勝ち戦-

三好隊の敗走を知った秀吉方の第3隊の堀 秀政は、ただちに桧ケ根(長久手町大字長湫字野田農)の丘陵上に陣を構えた。まもなく白山林で勝利した徳川勢が突進してきた。地の利を得た堀勢は、接近した敵に鉄砲のつるべ打ちをあびせた。隊列を乱した徳川勢に向けて、秀政は総攻撃を命令。堀勢の鋭い攻撃に徳川の先発隊は、多数の死者を出し、大打撃を受けた。しかしこのとき、秀政はすでに家康の本隊が東方に進出しているのを知った。深追いは不利と判断した秀政は、急いで自軍をまとめて、北方へ引き上げていった。

仏ケ根の決戦

4月9日の朝、岩作の色金山(長久手町大字岩作字色金/現在は色金山歴史公園)周辺に着いた家康の本隊は、続々と香流川(かなれがわ)を渡って、午前10時ごろ長湫の富士ケ根(長久手町大字長湫字富士浦)から仏ケ根(長久手町武蔵塚の北部)、前山(長久手町東浦)に陣を構えた。一方、岩崎城を落とした池田恒興のもとへ、秀次大敗の報告がもたらされる。恒興は急いで馬首を返した。すでに布陣を終えた徳川軍に対し、恒興は自分の長男元助を右翼に、娘婿の森 長可を左翼に配した。両軍は激しく戦ったが、勝敗はなかなか決しなかった。しかし昼ごろ家康の本営に突進した長可が、井伊隊の銃弾を頭に受けて戦死(享年27歳)したため、戦いは徳川軍が優勢になった。戦闘の終焉は、午後1時であった。池田恒興は長田伝八郎に、子の元助は安藤直次に討たれた。恒興49歳、元助26歳であった。池田父子の塚は、現在も国指定史跡として古戦場公園内に残る。

和睦

長久手の戦いで勝利をおさめた家康は、ただちに小幡城を経て小牧山に戻った。一方秀吉は4月9日昼ごろ、楽田の本営で岡崎侵攻隊の敗戦を知り、すぐに大軍を率いて救援に向かった。しかし、ときすでに遅く、龍泉寺まで進んだものの、そのころには家康は小幡城まで兵を引いた後であった。翌10日には、家康はすでに小牧城まで戻っており、秀吉軍は、なすすべもなく楽田にひき返した。その後、両軍は小牧・楽田周辺で小競り合いをしていたが、4月下旬に秀吉が美濃国鵜沼(岐阜県)に移動すると戦闘地域も尾張西部へ移った。5月に加賀野井城・竹鼻城(岐阜県羽島市)、6月に蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)で局地戦があったが、11月に秀吉が信雄に和睦を申し入れると、信雄がこれを受けたので、大義名分を失った家康も兵を引き、約8か月間にわたった「小牧・長久手の戦い」は、幕を閉じた。
この戦いで、信雄は伊勢国の大半と伊賀国を秀吉にわたし、事実上の敗北。秀吉は、旧信長家臣団を自身へ臣従させ支配体制を再編成、翌年には関白となり全国統一を推し進めていく。家康は、結果的に秀吉に臣従したが、その実力を全国の大名に認識させ、秀吉政権下でも別格の地位を保ち、徳川政権樹立の足がかりを固めていく。

©長久手町教育委員会

10月 10, 2008 02 戦いの流れ |

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