ようこそ、長久手へ
4月 6, 2006 01 小牧・長久手の戦い | Permalink | コメント (0)
東部丘陵線(リニモ)「長久手古戦場駅」を下りると、すぐ西に古戦場公園が見えます。この公園は、昭和14年9月7日に国指定史跡となった「長久手古戦場」の周辺を整備したもので、公園内には長久手町郷土資料室があります。郷土資料室の1階では、長久手合戦のジオラマや合戦の資料が展示されており、2階では甲冑な武具類のほかオマントの道具など町の民俗資料が展示されています。史跡めぐりのマップもここでもらえます。また、公園内には、長久手合戦で戦死した秀吉方の武将、池田(勝入)恒興と長男の元助(庄九郎の塚)、近くには森長可の塚(武蔵塚)があります。
《長久手町郷土資料室》
所在地:長久手町武蔵塚204番地→地図 TEL:0561-62-6230
開室時間:9:00~17:00(入室は16:30まで)
休室日:月曜日・祝日の振替日・12/28~1/4
設備:喫茶スペース「はな*はな」、駐車場(普通車49台・大型バス1~2台)、トイレ(男性用・女性用・身障者用)
<耳より情報①>
★郷土資料室には、史跡めぐり用の貸し自転車(大人用7台・子供用2台、無料)があります。天気のいい日は、サイクリングがおすすめです。
★郷土資料室の2階では、愛知万博開催中に開設していた町万博サテライト会場の中心施設「長久手町・ワーテルロー市共同館」で展示していた「長久手合戦図屏風」(加藤 厚作)と「ワーテルローの戦いガラスアート」を移設し、展示しています。ベルギー王国ワーテルロー市は長久手町の姉妹都市で、このガラスアートは友好の証です。
★古戦場公園には約70本の桜があり、地元では桜の名所になっています。毎年4月の上旬には「長久手古戦場桜まつり」が開催され、夜間のライトアップや露天出店などがあり、大勢の人でにぎわいます。→詳細
■古戦場公園から北に約1.5キロ(徒歩で約20分)行くと、色金山(国指定史跡)にたどり着きます。この史跡の周辺は色金山歴史公園として整備されています。色金山の山頂には、家康が軍議を開いた際に腰をかけたと言われる床机石(しょうぎいし)が残されています。また、木立に囲まれた公園内には展望テラスや茶室もあり町民の憩いの場となっています。
所在地:長久手町大字岩作字色金37番地1 TEL:0561-61-3131
開室時間:9:30~16:00
休室日:月曜日・祝日の振替日・12/28~1/4
設備:駐車場(普通車55台)、トイレ
<耳より情報②>
★色金山歴史公園内にある茶室管理棟には、「国宝茶室 如庵(じょあん)」(犬山市の有楽苑)を模した茶室で「胡牀庵(こしょうあん)」のほか、二つの和室と立札席があります。抹茶(菓子付き、250円)をいただきながら、庭園を眺めてゆっくりしてみてはいかが。
★色金山は秋の紅葉がきれいです。毎年10月下旬には「色金山茶会」が催され、抹茶が振舞われます。→詳細
長久手合戦史跡は町内に点在しており、このほかにも史跡めぐりのルートがいくつかあります。また、史跡めぐりコースの途中にはおすすめの立寄りスポットもあり、長久手の文化や風土を感じることができます。
《合戦ゆかりの寺》色金山周辺の岩作(やざこ)地区には、安昌寺(あんしょうじ)と教圓寺(きょうえんじ)という合戦ゆかりの寺があります。安昌寺の雲山(うんざん)和尚は、合戦の後、敵味方の別なく戦死者を手厚く供養し首塚(国指定史跡)を築きました。教圓寺は、家康が色金山から御旗山(みはたやま、国指定史跡)に移る際、戦勝を祈願したと言われます。
色金山のすぐ西にある石作(いしつくり)神社は、延喜式に記載がある由緒ある神社で、境内の林は町の保存樹林に指定されています。また、古戦場公園の北西約1キロには景行(けいこう)天皇社があります。これらの神社では、豊年の10月、背に飾り物を乗せた馬を棒隊や鉄砲隊が守り、途中で火縄銃を発砲しながら地区を練り歩き、社寺に奉納するという伝統の祭り「警固(けいご)まつり〔オマント〕」が行われます。岩作地区は「岩作のオマント」として、長湫地区は「長湫の警固祭り」として、それぞれ愛知県無形民俗文化財に指定されています。町内では上郷地区でも警固祭りが行われます。(町指定無形民俗文化財)。
《古戦場にちなんだ和菓子》
古戦場公園から北へ約600メートル行くと、沿道に和菓子屋があります。このお店の名物は、ひとつひとつ手作りの「古戦場最中」(1個90円)です。浅井屋製菓舗→詳細
馬の塔(オマント)は、かつて尾張・西三河で行われた代表的祭礼習俗のひとつで、標具(ダシ)と呼ばれる札や御幣を立て、豪華な馬具で飾った馬を社寺へ奉献するものである。
神輿や山車と比較すると道路の狭さや悪路を気にすることなく村のすみずみまで巡行でき、長距離移動が可能であった。この特性はより多くの村々が連合して行う形式がとられ、合宿(合属ガッシュク・カシク・ガッショク)と称して数10箇村が連合して信仰圏の広い社寺に献馬されるようになった。
祭礼は、降雨祈願の成就御礼や、豊作御礼、遷宮祭にも出された。 5月5日の熱田馬の塔、5月18日 大須観音馬の塔、9月9日 猿投神社馬の塔 などが記録にある。
本町の馬の塔には、馬を警固する棒の手隊と火縄銃を持った鉄砲隊が加わり「警固祭り」と呼ばれている。この傾向は旧愛知郡東部・西加茂郡が顕著である。本町の馬の塔の運営は、神社を中心に3つの地区に分かれて実施されている。景行天皇社・富士社を氏神とした「長湫の馬の塔」・石作神社を氏神とした「岩作の馬の塔」・熊野社、神明社、多度社3神社の氏子たちが合同で行う「上郷の馬の塔」である。合宿が行われなくなってからの馬の塔は、氏神に奉納される場合も合宿と同じ馬飾りが使われ、合宿に準ずる形で行われている。また曳馬祭りは昭和24年ころまで行われていたが、最近は行われなくなった。
祭りを実施する組織は青年会、古くは「若キ者」「若連」とも呼ばれる集団で、15歳から25歳までの男子が祭礼一式を取りしきった。祭ともなると年齢を基準に役が定められ、村中に特別の緊張感がはしり、祭に関する村民への伝達一つをとってもきびしい作法の中で行われた。祭りを通して若者たちは年長者のきびしい目の中で鍛え上げられていった。こうした中で、ひとたび無礼があると、祭りそのものが成立しなかったり、揉め事が起きてしまうこともあった。しかし、祭りの時は小作も地主も対等となって祭りに参加するため、小作人たちは祭りがうれしかったともいわれる。
本町の馬の塔は、昭和58年6月11日に町の無形民俗文化財に指定された。その後、2地区が愛知県無形民俗文化財に指定された。
愛知県無形民俗文化財 昭和60年11月25日指定「岩作のオマント」
平成17年 3月22日指定「長湫の警固祭り」
4月 3, 2006 05 長久手民俗芸能 | Permalink | コメント (0)
棒の手は愛知県の代表的な民俗芸能の一つであり、「長久手の棒の手」は昭和31年6月21日に県の無形民俗文化財に指定された。
棒の手の起源ははっきりした資料がなく定説がない。一説には本郷城主(現在の日進市内)丹羽若狭守氏清が、城下の農民に武術を習得させたのが始まりで、丹羽氏の勢力が増大するのに従い各地に広まったとする説や、巻物をはじめ棒の手の内容に関する記録には修験道などの影響が濃いところから、修験道に起源を求めた説もある。
棒の手の伝授
かつての棒の手は青年組織により受け継がれてきた。男子は小学校卒業から16歳頃までの一定の年齢に達すると、青年会などの組織に入り、棒の手の練習を始めた。中でも巻物の伝授を受けようとする者は、師匠の元へ弟子入りの誓文血判を出して弟子となった。そして、ツキロクサイ(月六斉)といって、月に6度練習日を決めて通い、3年あるいは6年目にして初めて免許目録を授与された。巻物の受け継ぎは師匠の家で厳粛に行われた。深夜、師匠の家に声などもれないように目張りをし、巻物を授けたのち、口伝で奥義を伝えたと言われる。
棒の手をささえる組織
棒の手は、戦中戦後に一時衰退したが、昭和30年頃から各地で保存会が組織され氏子祭礼、馬の塔などの行事とともに受け継がれてきた。
現在本町には、流派ごと、地域ごとにそれぞれ保存会が組織され活動している。そしてこれを総括する組織として「長久手町棒の手保存会」がある。昭和30年に組織されたこの保存会は現在会員総数200名をこえる大組織で、町内行事はもとより、愛知県を代表する郷土芸能の棒の手を紹介するため、県外への各種行事へも積極的に参加している。
4月 3, 2006 05 長久手民俗芸能 | Permalink | コメント (0)
秀吉そして家康・信雄の両者とも、当面は伊勢国、特に信雄の本拠長島城(三重県桑名市)のある北伊勢を戦闘場所と想定していた。しかし、家康・信雄の予想に反し、美濃国大垣城主・池田恒興(勝入)と美濃国金山城主・森 長可が犬山城(愛知県犬山市)を攻撃、落城させる。慌てた家康は、池田・森の侵攻を防ぐため、自軍の一部を北伊勢から北尾張へ急遽転戦。天正12年(1584)3月17日、羽黒(犬山市)まで陣を進めてきた森軍を、家康の部将酒井忠次らが敗って、形勢を立て直す〔羽黒の戦い〕。一方、北伊勢では秀吉軍への守りが不足し、信雄領伊勢国の南半分は、ほぼ壊滅状態となる。
羽黒で敗戦したものの、敵地犬山に拠点をもつことに成功した秀吉は、楽田(犬山市)へ着陣、周辺に砦を築いた。楽田から南方約4.5kmの小牧山(愛知県小牧市)へ家康も陣を移し、近辺に砦を作る。信雄も長島から小牧山に移った。両者の当初の思惑に反し、主戦場は尾張国内へ移り、お互いが出方をうかがうという状況になる。
諸国へもこの戦いの様相が伝えられ、両将からの呼びかけに呼応し合戦に至った地域もある。秀吉方、織田・徳川方のどちらにつくか。この戦いは日本中へ大きな影響をおよぼした。
4月に入り、膠着状態を破って秀吉軍は岡崎侵攻のための別働隊を進める。史記類をもとにした通説では、この作戦の発案者は池田恒興で、「家康配下のほとんどの部隊は小牧山にいる。今、家康の本拠地岡崎を突けば、家康軍に乱れが生じ、そこを突けば勝利できる」と提案。最初はこの案に賛成しなかった秀吉も、恒興の熱心さに押され、ついに承諾したとされる。しかし近年の研究で、事前の普請(工事)、行軍の規模、ゆっくりとした移動日程などから、この作戦は隠密行動というより、計画的で大がかりなものであったことがわかってきた。秀吉はこの案に主体的に介入し自信をもっていたと思われるが、結果的にはこの作戦の失敗は秀吉の汚点となった。そのため「太閤記」では秀吉が恒興の案を「仕方なく受け入れた」と記され、後の史記がそれに従ったと考えられる。
4月6日夜半、池田恒興・元助の父子、森長可 、長谷川秀一 、堀 秀政、秀吉の甥で総大将の三好信吉(後に三好秀次、その後豊臣秀次)の順で、約24,000人の軍勢が岡崎へ向けて進軍を始めた。
家康は、7日遅くとも8日には秀吉方の岡崎侵攻隊の動きを把握、8日夜には自身が小幡城(名古屋市守山区)へ進んだ。岩崎城主・丹羽勘助氏次を道案内役とした
榊原康政ら4,500人の先発隊と、9,300人の本隊が秀吉方を追撃に向かった。
4月9日早朝、岡崎侵攻隊の先鋒池田隊は、岩崎城(日進市)のそばを通りかかった。恒興は岡崎への道を急ぐため、この家康方の城を攻めずに通過しようとしたが、岩崎城を守っていた氏次の弟、丹羽氏重らが、鉄砲を撃ちかけてきたため、これを攻め落としてしまった。この城には城主氏次の姉婿で、長久手城主の加藤太郎右衛門忠景も留守番に来ており、200名余りの城兵とともに戦死した。忠景41歳、氏重16歳であった。なお長久手城趾は、現在、町指定史跡となっている。